凡人は非凡人の夢を見るか

生きる意味を探し続けている

本を読み終わると淋しい気持ちになる

 

壇蜜さんの「壇蜜日記」を読み終わった。

最初は他愛のない日常生活が綴られているところに、入り込むまで時間がかかったが、いざ終わってしまうととても淋しく感じた。

憧れている人の見えない部分を知った時って、そしてそれが意外といい意味で人間くさかったりすると、途端に親近感がわいて、ますます好きになったりするものだ。

そういう意味ではこの本は、とても上手いと思った。

できれば中立的でいたい

 

今日、日本シリーズに決着がついた。

 

私の夫や弟が熱心な野球ファンということもあって、野球を見ることは多い。 高校時代にソフトボールをやってたこともあって、なじみもある。

夫は巨人、弟はヤクルトファンだが、私自身、特に応援している球団はない。

 特定の球団の応援に打ち込むのは悪くないと思うけれど、できれば客観的に、中立的に、静かに楽しみつづけたいと思っている。

kiriに呪われてる?そして私は諦めた。

昨晩、先ほどと「kiriは高いが美味しい」という内容のブログを書いていたのに、両方とも不測の事態(※)で記事が消えたので、もうkiriについてブログを書くのは辞めることにする。

※昨晩はスマホで書いて「公開ボタン」を押したのに、公開された記事は文章がすべて消えていた。先ほどは、夫のサブパソコンで記事を書いていたら、二度お断りしたはずの更新プログラムが勝手に遂行されて保存されないまま文章が消えた。

 

毎日記事を書くことを目標としていたので、こういうことが二度続くと、やっぱり手書きの方がいいのかな、と迷ったりもする。でもこの手軽さにはかなわない。

手書きだと、ノートやペンにこだわりだしたり、空白のページが一ページでもあると書く気がうせてしまったり…昔から私は日記が苦手だった。

でもパソコンなら、ブログの種類はたくさんあるし、デザインも簡単に変えられるし、空白のページができるわけでもないし、らくちんだから良いと思う。

 

本当はもう少し書きたいことがあったはずなのに、kiri事件ですっかり頭から飛んで行ってしまったので、今日は「壇蜜日記」の続きを少しだけ読んで、寝ることにしよう。

しゃべりたいのにしゃべれない

 

外山滋比古氏の「知的生活習慣」を読んでいると、「しゃべることは体に良いからしたほうが良い。おしゃべりがエクササイズに含まれていないのは不思議だ」というようなことが書かれてあった。

一見、ごく当たり前のように感じるが、改めて言われないと気付かないこともある。

 

今の生活は日中一人で好きなことを出来る反面、誰かとしゃべることがほとんどないので、つらい状況だ。外山氏にお墨付きをされると、なおさらしゃべりたい気持ちが募る。水泳、なわとび、フラフープ、腹筋というエクササイズは一人でできても、おしゃべりというエクササイズは相手がいないとできない。

たまにすれ違うと猛烈に話しかけてくる一人暮らしのお年寄りの気持ちがわかるような気がした。

 

学生時代は電話で友達と話したりもしたが、あの頃よりだいぶ友達は減ったし、相手が仕事をしている以上、話したいときに自由に話せる状況でもない。

失業保険の条件上、アルバイトは制限されているし、自分でインターネット上でオフ友を探すエネルギーもない。おしゃべりがしたいという理由だけで両親に会いに行くのも、少し照れくさい。

「声を出す」という観点ではカラオケに行くことも一つの手だとは思うが、決められた歌詞を上手に歌うのはおしゃべりではないし、誰かと時間を共有し、自由に話す時間が欲しいと思ってしまう。

 

結局、悶々としながら夫が帰ってくるのを待ってるしかない。

こんな、毎日でいいのだろうか。

 

少し前までは転職活動で結構しゃべった。でも、面接という特殊な環境下では、決まった傾向の質問に対してある程度練習した成果を発表する場だし、たまにハッとする質問や想定外の質問に対してその場ではうまく切り抜けたつもりでも、後になってあれじゃよくなかったとか、頭悪いなとか自己嫌悪に陥って、 楽しくない。

それでも、誰かとぶつかって関わりあっているという事実は刺激的だ。

しばらく転職活動はするまい、自分が何をしたいのかはっきりさせてから再チャレンジしようと思ったのに、結局転職活動に踏み出すのだろうか。

 

 

そして傷ついて、また同じことを繰り返すのだろうか。

サブ手帳

 

今日、近所の本屋さんで「創る手帳2017」なるものを購入した。

 

実は昨日、夫と散歩がてらその本屋に立ち寄ったとき、たまたま見つけて気になっていたものだ。

 

11月以降も勤め人になる見通しが立たないため、毎日何をするか、何をしたかちゃんと可視化したいと思っていた。というか、可視化しないと無為に毎日を過ごし、そんな自分にあるとき絶望して、精神的に大変なことになりそうだと思った。

この手帳はTO DO LISTと、時間ごとに予定を書き込めるようになっており、予定表としても日記としても活用できそうだった。それに、浮かんできたアイディアを書き込んだり、図にできるような欄が充実していたのも、物を書くときに役立ちそうだ。

 

 

私自身、手帳を活用したのは就活の時くらいで、はりきってスケジュール帳を買っても使いこなせないままサヨナラしてしまうことが多かった。会社に入ってからは仕事の予定は卓上カレンダーに書き込んで事足りていたし、プライベートも狭く特定の用事に限られていたので管理する必要がなかった。

それでも毎年、買っても新しい手帳を買っては今年こそはと思う。そして、その時期は毎年、10月頃にやってくる。

 

来年の手帳は、例年よりもさらにフライングして、先月買っていた。料理教室のあと、渋谷の東急ハンズで、転職エージェントとの面談の待ち時間にじっくり選んだのだ。

気に入ったデザインの手帳を見つけ、さらに珍しくオリジナルティを加えたくなって、手帳に引っ掛けるタイプの縦タイプのゴムバンドと、ボールペンフックを買った。

手帳カバーがやや厚みがあるタイプなので、ゴムバンドをつけるのは相当苦労した。喫茶店で周りの人に見られないように涼しい顔で取り付けるのは大変だった。

 

そんな訳で、メインの手帳はすでにあったので、今日買った手帳はサブ手帳になる。正直、手帳坊主の私に2冊は使いこなせるだろうか?

 

自分の働き場所を見つけ、メイン手帳で事足りるような毎日を送れればベストなんだが。

昨日思ったことを今日も間違いないと思えるか?

 

ヤフーのニュース記事で、時折「貧困」に関する記事を目にする。

 

今の時代、物や情報にあふれ、昔よりは確実に豊かになったはず。

100均一ショップや、298円のお弁当があったり、インターネットを調べれば、料理のレシピや節約の知恵も手に入る。

それでもギリギリのところで生活している人は一定数いるし、なくならない。

さらに、女性にとって、身体を売るという「最後の切り札」が通じなくなってきているところもあると聞く。

 

そして、そういう人たちは、いわゆる「そこそこ」「普通」の暮らしをしていた人たちが何かのきっかけで陥ることもあるというらしい。

 

毎日を精いっぱい生きる人たちがいて、その人たちの状況を思うと、昨日自分が言った「第二次モラトリアム」なんて、なんて甘っちょろいことを言っているのだろうと、自己嫌悪に陥るし、恥ずかしいと思った。

旦那さんがいるからこそ、成り立つ世界。それは、私が常に抱えてきた罪悪感。

それを前向きにとらえて、未来への投資という気持ちに昇華したつもりなのに、こうした記事を目にしただけでぐらつく。

 

結局さあ、あなたは転職活動がうまくいかなくて逃げているのを、カッコつけていってるだけじゃないの?強がってるだけじゃないの?

 

違う。

そういっても、周りからはそう見えないのかもしれない。

誰かに言われたわけじゃないけど。私の中の「不特定多数の人」のイメージがそう囁く。

お前は逃げている、と。

 

 

自分が一度言ったことを、迷いなく胸を張っていけるような人間になりたい。

 

 

私みたいな心が弱い人間は、ブログを書いていても不特定多数の人に公開するのは怖くてできない。

いつか不特定多数の人に見せられる日が来るだろうか?

 

 

第二次モラトリアム

 

今、唯一選考結果待ちの会社が落ちていたら、潔く自分を高める期間と割り切って転職活動を中断することにした。

 

そして、その期間を、第二次モラトリアムと名付けることにした。

 

自分は何になりたいのか?

そのために何が必要なのか?

 

社会人でたった三年しか働いてないけれど、大学生のときとはまた違った視点でこれからのことを考え、自分を高める取り組みをしたいと思う。

そしてそれは、これからの転職活動にも生きてくると思っている。

 

転職活動自体が目的になっていて、自分は長い目で何をしていきたいのかをよく考えてこなかった。

最低限の生活が保障されている今ここで、真剣に自分と向き合い、何かこれからいきて行く上でのヒント見つけなさい、天から与えられた時間なのだと思う。

 

第二次モラトリアムは、規則正しい生活と運動、できる限り自炊を心がけ、あとは読書や映画観賞、物書きの時間を、今だからできる贅沢な使い方をしたいと思っている。